昨日の記事に対して「
法律関係者は、何故、選択肢方式のみの答えを探す?」という形で反応をいただいたので、図書館事件とは一部関係ない話になってしまいますが、個人的な法学部時代の思い出ではありますがコメントしてみます。
昔法学部にいたとき、よく先輩や法曹関係者の方と話していて言われたのが「
君、それは立法論だよ」という言葉。これ法学部以外の方には意味が理解できないと思いますが(実際私も最初はどういう意味か理解できなかった)、要は「それは過去の判例からは絶対導かれない結論で、その結論に至るには法律自体を変えるか、あるいは最高裁が新たな判例を示すしかない」という意味です。
んでここからが重要なんですが、日本の法学教育においては
「立法論」という言葉が出た瞬間にそれ以上の議論は許されないんです。日本の大学においては(少なくとも法科大学院の設置前は)「法学部=法曹関係者の養成機関」「法曹関係者=立法機関(政治家)が作った法律を解釈・運用する者」となっていて、「法律を変えるのは政治家の仕事であって我々の仕事ではない」ということでそこを議論するべきではないんだ、と当時先輩から教わりましたが。
そして「それまでの枠組みにない新たな判決を出す」ことに対しても法曹関係者ってのは一般人の想像以上に慎重です。前回も書きましたが、新たな判決を出すってことはその判決自体が(正式な「判例」とはならないとしても)一定レベルの先例として後続する類似事件に対し影響を持つことになるので、新たな法律を作るのに近い効果があります(この辺は「判例 法創造」とかのキーワードでぐぐるといろいろ出てきます)。言い換えれば「新たな枠組みの判決=立法に準ずるもの」となる、つまり「新たな判決の必要性について論ずる=法律を変えるのに準ずる議論=事実上の立法論」になってしまうんですね。
なんで「法律関係者は、何故、選択肢方式のみの答えを探す?」というご質問に対しては、個人的な経験を踏まえると「日本の法学教育がそうなっているから」と答えるのが一番適切ではないかと思います。
実際、昔テレホンカード偽造が話題になり始めたころ(まだ当時「支払用カード電磁的記録に関する罪」はなかった)、東京地裁と大阪地裁で判断が分かれた(確か東京では有罪で大阪では無罪だったと思う)なんてことがあったように、新たな技術やそれに基づいた犯罪が出てきた際、判例の蓄積がない・立法措置が間にあわない状況では裁判所の判断ですら乱れが生じることがありますが、現在の法律の世界ではそれも「法律の信頼性を担保するための社会的コストの一部」であるとして、できるだけ避けるべきではあるが甘受せざるをえないものと考えられている、というのが私の認識です。これは日本に近代法が導入されてからの一貫した考え方ですし、そう簡単には変えられるものではないでしょう。
ただ現在は、法曹関係者の養成機関としての機能は法科大学院が担っていて、法学部は「純粋な法律そのものの研究」の機能を中心に担当することになってますから、今後は法律の研究の一環として「立法論」に関する議論が許される空気が出てくるのではないか(というか出てきてほしい)という希望的観測を個人的には持っています。
○追記
言い換えると、岡崎図書館事件での逮捕の件が不当だという意見については、おそらく議論に参加されている法律関係者は自分の立場で言えることを言っているだけだと思いますので、(その解釈自体が適切かどうかは別として)これ以上の効果を期待しても無理でしょう。
むしろ政治家(例えば岡崎市議会の議員さんとか。ちょっとど忘れしましたが、議会で本件絡みの質問されている方いらっしゃいましたよね?)に話をして議会で問題として取り上げてもらう(立法措置が取られれば最高ですが、少なくとも議会で議事録に残る形で質問として取り上げてもらうだけでも、警察等に対しては驚くほど効果があります)とか、経産省あたりの官僚と組んで「この程度のアクセスなら業務妨害には当たらない」というガイドラインを出してもらうとかの方が、今後同様の問題が起きないようにするにはより適切ではないか、と思ってます。